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連載企画:「これ知ってる?しおばら探検隊」第3回:塩原三恩人 その②

第3回 塩原三恩人 その②

 

関谷から塩原へ向かう塩原街道は、毎日たくさんの車が行き交っています。特に秋の紅葉シーズンはたくさんの人が県内外から訪れます。
ところが、第1回で紹介した奥蘭田より少し前の時代、明治の初めまでは、そこに道らしい道はなく、人や馬がやっと通れるくらいの細い山道がわずかに通っているだけでした。
西那須野から塩原温泉にいたる山道を切り開き、今のような広い道に開発してくれたのが、明治16(1883)年に栃木県令(今でいう知事)になった、三島通庸です。
今回は塩原三恩人のひとりで、塩原街道の開発に力を注いだ「三島 通庸(みしま みちつね)」を紹介します。

 

三島 通庸 (1835年 – 1888年)

天保6(1835)年、現在の鹿児島中央駅近くに生まれました。
江戸末期の激変期には、寺田屋事件や長州征伐など尊王倒幕運動に参加。
戊辰戦争が起こると、これにも参加しました。戊辰戦争後は、現在の宮崎県都城を治める地頭に任命され、この功績が内務卿・大久保利通に認められ、明治4(1871)年に東京府参事として新政府に出仕することになりました。
その後、山形県や福島県で県令、土木局長、警視総監など、数々の役をつとめました。
明治16(1883)年に栃木県令として赴任すると、県庁の宇都宮への移転や、塩原新道、新陸羽街道の開削・整備にかかわり、車道を意識した近代道路の建設に尽力しました。

 

塩原新道

通庸が福島県令時代の明治15(1882)年に、会津若松を中心として山形県・米沢、新潟県・新潟、栃木県・大田原の三方に通ずる『会津三方道路』が計画されました。
これには、明治政府が産業を盛んにしたり、犯罪を防止したりするために、東京より北の道路を整備することに力を入れていたという背景があります。
それを受けて通庸は、西那須野から塩原、山王峠(栃木県日光市と福島県南会津町の境界にある峠)を通り、福島県に通ずる塩原新道をつくることを決めました。
通庸は栃木県令に赴任するとすぐに、塩原新道をつくるため調査を行い、明治17(1884)年1月には工事に着工しました。
しかしこの工事は崖を切り崩したり、沢に橋を架けたりする必要があり、非常に難しい工事となりましたので、たくさんの県の予算が割り当てられました。また、この工事は県民にとっても大変負担の大きなものでしたから、当時反対の声もありました。
それでも、通庸は工事を押し進め、わずか9か月後の明治17(1884)年10月に塩原新道を完成させました。
反対や不満の声も多い工事ではありましたが、いざ完成すると大勢の人々が遠方より渓谷美や温泉を求め訪れるようになり、塩原温泉が観光地として発展するもとになったのです。

【(左)『第41号 塩原字門前入口ヨリ川向遠望ノ景』 (右)現在の様子】

【(左)『第45号 八幡橋ノ景』 (右)現在の様子】

通庸は、開削事業を後世に伝えるために、写真と絵画で記録を残しています。塩原新道の記録も、石板画や油彩画、写真など多数残っています。
これらの記録は明治の塩原の風景を知ることができる、貴重な資料です。
今回そのいくつかを巡ってみましたが、それ以外の場所も、現在の様子と見比べてみるのも面白いかもしれませんね。

 

今回の記事を書くにあたって参考にした資料は、図書館で貸し出しができます。

 

【参考資料】

★『西那須野町の交通通信史』 西那須野町史編さん委員会∥編集 西那須野町 1993

★『土木県令・三島通庸』 丸山光太郎∥著 栃木県出版文化協会 1979

★『那須の文化誌』 那須文化研究会∥編 有限会社随想舎 2006

 

【資料提供協力:那須野が原博物館】

 

次回は、10月25日頃更新予定です。